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  • 2000年は12キロで中止

 1999年に初めて北海道マラソンに出場して完走できてから、その後はかなり気合の入った一年だった。
 11月のNYCマラソンでは自己ベストを出すことができ、それを機に翌年4月のボストンマラソンにも出場。そして、2000年のサロマ湖100キロも完走するという、快挙の年だった。練習は充分過ぎるほど。でも。。。
 2000年の北海道マラソンは、スタート時点で30度という暑さだった。最初からなんだかいや〜な感じがあったのだが、走り始めてまもなく、日差しがどうしても我慢できなくなった。給水所は、水を求める人で殺気立った雰囲気がただよう。最初の給水所で、飲む分、足にかける分、頭からかける分と、何杯も紙コップを使ってしまった。これでは後から来る人たちの分の紙コップが足りなくなるだろうなと思いながらも我慢できない。
 南郷通りに入ると、道路に影がない。走っていても気力がだんだん失せてきて、この先30キロ以上この暑さの中を走るのか〜と思うと、もう一人の自分がささやいている声に気がついた。
「ここで止めたら?暑いし、水も足りなくなるかもしれないし。」
いつもなら、この悪魔の声には耳を貸さないのだけれど、この時ばかりは別。12.5キロのエイドで、中止を申し入れた。すぐさまボランティアが駆け寄ってきて、氷をくれた。日射病になってしまったと思ったようだ。申し訳ない気持ちで、「今、具合が悪いわけではないんです。このまま走ると具合が悪くなりそうだったので」と言い訳をした。
 歩道に腰をかけて座っている私の前を、仲間たちが次々と通り過ぎていった。今思えば、サロマ湖100キロを完走したあと、自分では気がつかない疲労もたまっていたのかも知れないが、気力がすっかりなくなってしまっていたようだ。

  • 2001年は25キロまで

 自分からレースを中止してしまった2000年のレースの後も、なんだか練習不足の日々が続いた。2001年は最初から完走は無理という気持ちがあった。またしても暑い日になった。
 去年の二の舞か。とにかく出場するからには、自分のできるところまで一生懸命走ろうと決めた。でも、やはり練習不足の体には、北海道マラソンはきつい。5キロごとの関門に追いかけられるように走っていった。頭の中で時計と自分の走力を計算することもできなくなってしまった。少しずつ貯金がなくなりついに、半分のところでおしまいになってしまった。 25キロの関門は、すでに閉鎖されてしまっていた。 しょうながいな。練習不足だから。自分に納得させた。

  • 2002年またしても

 2002年のレースは、申し込みはしたけれど、果たしてどこまで走れるかという状態。練習していないから自分に自信がない。だけど、せっかく申し込んだのだからと、スタート地点に立つ。
 北海道マラソンの関門は容赦がない。たとえ1秒でも足りなければ目の前でコースは閉鎖されてしまう。 自分がいくら元気でも、もうそこから先の道路は走らせてはもらえない。
 20キロの関門の手前で、関門閉鎖の声が聞こえた。もう少しなのに。目の前で25キロから先のコースを閉鎖されてしまって、しょうがなくバスに乗り込んだ。あ〜、もうバスの旅はこりごりだ。

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