翌年は1970年に始まったNYCマラソンの20回目の大会。すっかり病み付きになってしまった事と、1998年の大会は体調不良で満足のいく結果が出せなかった事もあり、3度目のチャレンジをすることに決めた。 またしてもエントリーの難しさに直面する。この年も抽選。もちろんはずれ。どうやらNYCマラソンは、年々人気が出ている大会らしく、ツアーでもすぐいっぱいになってしまう人気だ。 昨年はエントリーだけお願いできた代理店もこの年の人気にはちょっと参っているようだった。しかし、打たれ強い私は、去年の担当の方に直接話をして、なんとかOKをもらうことができたのだ。これはかなり稀なケースだったと思う。
無事エントリーが確定されたので、あとは良いタイムを出せるよう練習あるのみ。この年の9月末で、22年勤務した会社を退職することになっていた。10月からは、すべて自分の自由な時間。過去2年間の大会参加で、世界各国から来るランナーと気軽に話をしたいと思っていた私は英会話の個人レッスンに通うことにした。スクールで受講の動機を聞かれ、11月のNYCマラソンでランナーと冗談を言いながら走りたいからと答えたら先生には大受け。週4日、まじめにレッスンに通いあとは練習といういたってまじめな日々が続いた。 今までは仕事があったのでトンボ帰りだったが、今回は時間はたっぷり。走った後のご褒美にと、ジャマイカで疲れをいやすという計画を立てた。
この年もFRUNの仲間が一緒に走ることになっていて、NYで合流した。 久しぶりに練習したなという実感を持って望んだ大会だった。 いつものように図書館前からバスに乗り込み、スタテン島でスタートを待った。スタートでは、当時のジュリアーニ市長のスタートコールを聞いて、3度目のベラザノナローズブリッジを渡った。 体が軽い。今まで感じた事がないような足の動きに自分でもびっくりしていた。 クイーンズボローブリッジを渡って、怒涛のような歓声を聞いたとき、みんな私に向かって応援してくれているような錯覚さえ覚えてしまった。 35キロ地点での3時間ちょいすぎのタイムを見て、もしかしたらという気持ちが強くなった。あと7キロ。3時間40分を切れるかもしれない。あと7キロしかないなんてもったいない、楽しんで走ろうと足を進めた。 郷ひろみがこの時のNYCマラソンに出場していて、私の前を走っているはずだった。ミーハーな私は、初フルのホノルルも、その前の年にテレビで見た郷ひろみのホノルルマラソン完走の番組を見て決めたのだ。この大会では、記録を自己ベストを狙っていたらしい。 最後のセントラルパークは、本当にうれしい気持ちで走ることができた。ゴールは、自分でも信じられないタイム。もちろん自己ベストだった。郷ひろみは結局私よりたしか5分ほど遅い記録だったと思う。
気持ちよく走ってホテルでシャワーを浴び、友人たちとの食事の会場へ向かう地下鉄のホームに今走り終えたばかりの男性がいた。「完走おめでとう!」と言うととても喜んでくれ、私のタイムを聞いて驚いていた。仕事を辞めて習い始めた英会話のお陰で少しは軽い会話ができるようになったようだ。
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